あーたーりーまーえー
「人を見れば泥棒と思え」
わたくしが13歳の春、心に決めた言葉です。
今はまだ100%胸を張って言えてはいませんが
「人こそ宝」と感じてやまないです。
親・親類・友達・仲間・同僚・上司・部下・バディ・パートナー・家族
いろんな人間関係の中で発生する摩擦・感情。
人生をいくつかの要素に切り分けてみると
「人間関係」で生まれる感情ほど人に影響を及ぼすものもないんだろうなーと。
13歳の僕はすでに転校=転居=生活環境強制変更「5回目」を体験
もっと多くの体験のある人がいるのも承知の上ですが…
当時の僕にはある意味「普通という名の苦痛の連続」でした。
方言も違い、体格の良かったぼくは
毎回行った先で「転校生」として「好奇の目」にさらされます。
でも「人に対する怯え・不信感」が根深くあった私は、
それを友情に転換するのに2年かかります。
そして2年後には次の転校=生活環境強制変更です。
「いわれのないことで嫌な体験がまた増えた。やっぱり人ってこうなんだ…」
(何かのチャンスと捉えるなんてできた状態ではなかったな。)
「仲間ができた。でも2年経てば振り出しに戻り、嫌な体験が待っている…」
(イヤイヤ、手紙書いたり何か続けることはできてたんだけどねー。。。自分で招いてるし。)
最近、「もし僕が親として家族帯同で転勤した」とすると
何ができるか考えてみる機会がありました。
「普通(=あたりまえ)という名の苦痛」を避けるには?
某公社に務めていた父の仕事感では、
「転勤」=「転居し同居」が「普通(当たり前)」だったわけです。
この「普通(当たり前)」に
「互いの感謝」や「合意」、
さらには引越し「T-UP」ができたらどうなんだろう?
不器用な親父には表現・対話できなかったと思うけど、世の親父の心は
「家族をなんとか守ろう=稼ごう」なはずです。
企業で「稼ぐ」には「評価を得る(お客様評価=売上、部下上司評価etc)が必要。そしてその上で「次のチャレンジ(転勤)」が不可避です。
父親の家族への想い・仕事への想いや働く目的が、
家族と分かち合えていたとしたら?
もし、その事に家族が感謝できていたら?
親の転勤についていくのが
「当然」ではなく「感謝」と「愛」の元の合意になると思いました。
子供は新天地への好奇心はある。
でも変化は怖い。
だから、引越し「T-UP」!!!
「転校で得られる体験が人生の糧になるぞー!すごいねー!かっちょいー!」
最後に「安心立命」。
「何かあっても大丈夫だからね。安心していってらっしゃい!」
親が安心を降り注がせる家庭ほど、子にとってありがたいものはないはず。
そんな親子の関係性で安心して学校に行き、
「好奇の目にさらされる間がチャンス!」とばかりに友情をはぐくめたとしたら?
過去のたらればではなく、
未来の想像として考えました。
なんだかやれそうな気がしますわ。
ここで、あらゆることに言えることは
親・親類・友達・仲間・同僚・上司・部下・バディ・パートナー・家族、
あらゆる関係の中に
「当たり前の発想」は無しよ!ということ。
そして「ちょっと変わった感謝」の発想を持ってみることだなーと。
ちょっかい出してきた友達に嫌悪感を持つけど、
ちょっかい出してこない友達には「感謝」はしていない。
文句を言ってくる上司には嫌悪感を持つけど、
褒めてはくれずとも文句言わない上司には「感謝」はしていない。
やると言ったことをやらない部下・仲間には嫌悪感を持つけど、
まだ未達成だけど必死にもがいている部下・仲間には「感謝」はしていない。
なんで?
それが当たり前だから?
嫌悪感を持つようなことを言ったりやったりする人には嫌悪感でOK!
自分の体と心は自分で守んなきゃだもんな。
でもそれ以外の人は
「お互い様だ!」
「当たり前だ!」から一歩進んで
「ありがとねー! 感謝するわ。」
がいいかなーと最近感じます。
決して「いいね」を押さなくても、
内容にピンとこようがきまいが、
「どれどれ、どんな内容かな?」と興味を示し、ごちゃごちゃ批判などせずお読みいただいた皆々様に
「感謝」です。
「当たり前」じゃない事をしでかす人
アヒム・ホルケメス先輩
御歳65歳?!
未だウルトラマラソン現役トップクラス
勇気をありがとう。
感謝!